可部地方の「山まゆ織り」の歴史

 広島市北部の安佐北区可部や安佐町一帯で、かつて山まゆ織りが盛んに行われていました。
 山まゆ織りがいつごろから始まったのか明らかではありませんが、文献に初めて現れるのは、元文4年(1739)の『(注)長公御代記』巻35で、広島藩の特産として、山まゆ織りの製法とともに山まゆ地2反とまゆ上中下3品を幕府に差し出したことが、記録されています。
 山まゆ織りは、軽くて丈夫で肌ざわりが良く、冬に暖かいという評判が広まり、山まゆ織(山まゆ紬、可部紬)の商標で全国にその名をとどろかせました。
 明治時代の終わりごろから、ますます盛んになり、大正元年(1912)にピークを迎えましたが、大正時代になり、新しい織物(人絹など)が大量に機械生産され安く売られるようになったこともあり、次第に作られなくなり、昭和2年(1926))を最後に途絶えました。
(注)広島藩5代藩主 浅野吉長(1708~1752)
                                                                                        参考:広島市教育委員会『山まゆ織り』1988

※柳宗悦は著書『手仕事の日本』(1948)の中で、広島の特色ある手仕事として、何よりも「山繭織」を挙げ「いつかきっと見直す人が出て再び立ち上ることと思います。」と記しています。

山まゆ織と包装紙
広島市郷土資料館蔵
       商標
広島市郷土資料館蔵

『民俗資料調査報告―可部町を中心とした山まゆ織―』
『吉長公御代記』巻35 山繭織関係部分 抜粋

広島市教育委員会 1974

二、 山繭織の歴史
 芸備地方における山繭紬の初見記録は江戸時代で、元文四年(一七三九年)である。広島藩の国産として山まゆ紬の製法について次のように報告している。
 山まゆの儀、芸州并備後国之内奥郡山々ニ而山子共拾ひ持出候を買集、高宮郡鈴張村(広島市安佐町)・沼田郡小河
 内村(同町)・山県郡今吉田村(山県郡豊平町)・吉木村(同町)辺ニ而織申候
一、  山まゆ附申候木ハ栗槙類樫にも附申候、此樫ニ付候まゆ又ハ暖所之まゆ宜敷御座候、尤まゆ乏きものニ而凡木
     数百本程之内ニまゆ壱ツ弐ツ程宛附申候、秋之土用以後取申候
一、  色合之儀、秋迄者青色ニ御座候、山に久敷御座候程白ク織立候得者白茶薄色御座候
一、  織申儀者四季共ニ少し宛織申候へ共、専秋末より正二月頃迄織申候
一、  織立様之儀、まゆを阿久に入れ、能煮申、水ニ而洗ひしぼり揚、綿を引申候にしてまゆを引出し、風立不申天気
     を見合、能日和にのりを附而壱筋宛に而干立申候、織候横糸ハよりをつけ紬のごとく巻候而織立申候
一、  山まゆ地二反差出申候
一、  まゆ上中下三品差出申候
  これにより、生産地は鈴張・吉木・今吉田あたりを中心としていたこと、原料は山に自生していること、経糸、緯
 糸ともに山繭の糸である諸紬が最初の形態であること、山子の存在、山繭の買集め状態ははっきりしないけれども、
 山繭紬の生産は農民の農間余業としておこなわれたなどを知ることができる。